「北の国から」や「前略おふくろ様」で知られる脚本家の倉本聰さんが、2026年9月18日に91歳で亡くなりました。倉本さんが理事長を務めていた倉本財団が、9月28日に発表しています。
訃報をきっかけに、倉本聰さんに子供はいたのか、妻はどんな人なのかを気にする人が増えています。きょうだいを含めた家族構成や、脚本家としての年収も気になるところですよね。
本人が日本経済新聞に書いた連載「私の履歴書」やインタビュー、財団の発表をもとに、分かっていることを順番にお伝えします。
倉本聰さんに実の子供はおらず、知人の娘を養女に迎えています。妻は舞台女優の平木久子さんで、倉本さん自身は5人きょうだいの真ん中でした。
- 倉本聰の子供は養女の娘1人で、妻は女優の平木久子
- 5人きょうだいを含む家族構成と、年収の考え方
- 2026年9月18日に91歳で亡くなるまでの富良野での歩み

倉本聰さんって、お子さんはいたんですか。
倉本聰の子供は養女に迎えた娘が1人

倉本聰さんの子供は、養女として迎えた娘さんが1人です。夫婦のあいだに実の子供は生まれていません。
倉本さんは「私の履歴書」の最終回(2015年8月31日掲載)で、子どもがいないので知人の娘を養女に迎えた、と書いています。娘さんについて本人が文章で語ったのは、この短い一文がほぼすべてです。
実の子供はいなかった
倉本さん夫婦には、実の子供がいませんでした。このことは、本人が自分の連載ではっきり書いています。
妻の平木久子さんは舞台女優で、倉本さんは脚本家です。二人とも若いころから芝居の世界で仕事を中心に暮らしてきた夫婦でした。
子供の話が表に出ることはほとんどなく、インタビューでも家族の話題は自分の両親やきょうだいの思い出が中心でした。
知人の娘を養女に迎えた
娘さんは、知人の娘を養女として迎えた方です。どういう縁で養女になったのかまでは、本人は書いていません。
養女に迎えた時期や、娘さんの年齢も明らかにされていません。倉本さんは東京から富良野へ移り住んでいるので、家族の暮らしの場所も途中で大きく変わったと考えられます。
娘の名前や仕事は公表されていない
娘さんの名前や仕事は公表されていません。9月28日の財団の発表でも、葬儀はご家族の意向により近親者で執り行われた、と書かれているだけです。
娘さんの名前として特定の名前やイラストの仕事が挙げられることもありますが、本人や財団が紹介したものではありません。一般の方のくらしを守るため、ここでは名前を書かないことにします。
子育てについて語っていたこと
子育てについて倉本さんは、土の上で育つ子供のほうが健全だと語っていました。2023年6月の産経新聞のインタビューで、コンクリートとアスファルトの上ではなく土の上で、と話しています。
同じインタビューでは、富良野自然塾で祖父母と親と子の3世代がそろってキャンプをする取り組みも紹介しています。じいさんが直接孫に教えられる社会を作ることが、日本の立て直しの原点ではないかという考えでした。
子供で検索されるのは北の国からの親子の印象から
倉本聰さんが子供という言葉と一緒に検索されるのは、北の国からの親子の印象がとても強いからだと考えられます。黒板五郎と純、蛍の3人の暮らしは、放送開始から45年たった今も語り継がれています。
私は、倉本さんの描く子供は、自分の子育てよりも自分自身の子ども時代から生まれていると思っています。純が東京に帰りたがる場面は、学童疎開先から仮病を使って東京に戻った本人の体験がヒントになったと、倉本さん自身が書いているからです。
5人きょうだいの中で、家族にくるまれて育った安心感も本人がインタビューで話してきたことです。実の子供がいなかったぶん、子どもの目線を自分の記憶から掘り起こしていたのではないでしょうか。

北の国からの純や蛍は、倉本さん自身の子ども時代とつながっていたんですね。
倉本聰の妻は舞台女優の平木久子

倉本聰さんの妻は、舞台女優の平木久子さんです。演劇集団円に所属し、結婚してからも舞台に立ち続けてきました。
2022年7月のサンケイスポーツの記事では88歳と紹介されていて、倉本さんとほぼ同じ年代です。夫婦は60年以上つれそってきたことになります。
劇団仲間で出会い結婚した
二人が出会ったのは、俳優座のスタジオ劇団である劇団仲間です。倉本さんは東京大学に入ってからほとんど学校に行かず、この劇団の文芸部で戯曲を書いていました。
本人の連載によると、ニッポン放送に勤めていた1960年の安保闘争のころには、劇団の女優だった平木さんとすでに付き合っていたそうです。結婚は1961年とされています。
富良野で一緒に暮らした
平木さんは、倉本さんの富良野移住のあとから一緒に暮らし始めました。2016年の週刊女性の取材では、東京にいた妻も間もなく富良野で暮らし始めた、と紹介されています。
倉本さんは1977年に移住したとき、本籍も富良野に移したと連載に書いています。富良野は夫婦にとって、仕事の場であると同時に暮らしの場でもありました。
演じ手と書き手として並んで歩いた
夫婦の関係を倉本さんは、妻は演じ手、僕は書き手という言葉で表していました。連載の最終回で、忙しくて向き合う時間は少なかったものの、並んで座ってそれぞれの立場で芝居に向き合ってきたと振り返っています。
財団の発表は、遺族と関係者の心情に配慮して静かに見守ってほしいと呼びかけています。二人が長く暮らした富良野の家で、倉本さんは最期を迎えました。
倉本聰の家族構成を一覧にまとめた
倉本聰さんの家族構成は、両親と5人きょうだい、妻と養女の娘です。本名は山谷馨(やまや かおる)で、倉本聰はペンネームです。
家族の顔ぶれを、分かっていることと出どころを並べて一覧にしました。
| 続柄 | 名前 | 分かっていること | 出どころ |
|---|---|---|---|
| 父 | 山谷太郎 | 自然科学系の出版社を営んだ俳人 | 週刊女性PRIME(2016年) |
| 母 | 公表なし | 父の後妻。クリスチャン | 週刊女性PRIME(2016年) |
| 兄 | 渉 | 8歳上。母が違う | 私の履歴書(2015年8月2日) |
| 姉 | 絢子 | 母が違う | 私の履歴書(2015年8月2日) |
| 本人 | 山谷馨(倉本聰) | 5人きょうだいの真ん中 | ウィキペディア |
| 妹 | 聰子 | ペンネームの一字のもと | ウィキペディア |
| 弟 | 暁 | きょうだいの末っ子 | 私の履歴書(2015年8月2日) |
| 妻 | 平木久子 | 演劇集団円の舞台女優 | ウィキペディア・サンスポ |
| 娘 | 公表なし | 知人の娘を養女に迎えた | 私の履歴書(2015年8月31日) |
表のとおり、名前まで分かっているのは父ときょうだい、妻までです。娘さんについては、本人も名前を出していません。
父は俳人で出版社を営んだ
父の山谷太郎さんは、自然科学系の出版社を営みながら俳句を詠んだ人です。水原秋桜子の門下で、日本野鳥の会の創設メンバーの1人でもありました。
倉本さんは5歳のころから父に宮沢賢治の童話を音読させられ、文章のリズムが身についたと語っています。父は戦後に事業で失敗し、借金を残して亡くなりましたが、お金ではない大切なものをたくさんもらったと50代になって気づいたそうです。
祖父は医学博士の山谷徳治郎
父方の祖父は、医学博士で日新医学社を興した山谷徳治郎さんです。大伯父には衆議院議員の山谷虎三さんがいます。
山谷家は祖父の代から、医学雑誌の出版や新薬の販売を手がけてきました。父祖の地は岡山県で、ペンネームの倉本も岡山の本家の屋号から取っています。
葬儀は近親者で執り行われた
倉本さんの葬儀は、家族の意向により近親者で執り行われました。財団の発表に、葬儀を終えたあとの報告として書かれています。
発表に喪主の名前はなく、家族の側からのコメントも出ていません。亡くなった日から発表まで10日あいているのは、家族だけで静かに見送る時間を取ったためと考えられます。
倉本聰の兄弟は5人きょうだいの真ん中
倉本聰さんは、兄、姉、妹、弟の5人きょうだいの真ん中です。きょうだいは4つずつ年が離れていました。
本人の連載によると、兄の渉さんは理科系の秀才で8歳上、姉は絢子さん、妹は聰子さん、弟は暁さんです。円満な家庭で、きょうだいの仲もよかったと書いています。
| きょうだい | 名前 | 倉本聰との年の差 |
|---|---|---|
| 兄 | 渉 | 8歳上 |
| 姉 | 絢子 | 4歳上 |
| 本人 | 馨(倉本聰) | — |
| 妹 | 聰子 | 4歳下 |
| 弟 | 暁 | 8歳下 |
年の差は、兄が8歳上で4つずつ違うという本人の書き方から出しています。
兄と姉は母が違う
兄と姉は、父の最初の妻とのあいだの子供です。最初の妻が病気で亡くなったあと、父が再婚した相手が倉本さんの母でした。
家族の仲がとてもよかったので、倉本さんは10歳になるまでそのことに気づかなかったそうです。両親はともに熱心なクリスチャンでした。
妹の名前がペンネームに入っている
ペンネームの聰の字は、妹の聰子さんの名前から一字もらったものです。倉本の部分は、岡山にある本家の屋号の蔵本から取りました。
ニッポン放送の社員だったころ、会社に内緒で脚本を書くために付けた名前でした。局の仕事では本名の山谷馨を使っていました。
戦時中は家族で岡山に疎開した
戦時中、倉本さんの一家は1945年4月から岡山県へ疎開しました。兄と姉は勤労動員で東京に残り、両親と祖母、倉本さん、妹と弟の6人で暮らしたと連載にあります。
その前の1944年には、倉本さんだけが山形県へ学童疎開していました。食べ物が足りず絵の具までなめたほどで、家が恋しくて仮病を使い、その年の暮れに1人で東京へ戻っています。
岡山で家族と暮らした日々は、倉本さんにとって楽しい記憶でした。疎開先で出会った18歳の猟師は、北の国からの草太兄ちゃんのモデルになり、家族と過ごした時間がのちの作品にもつながっています。

聰の字が妹さんの名前から来ていたなんて意外です。
倉本聰の年収は公表されていない
倉本聰さんの年収は、本人も財団も公表していません。脚本家の収入は作品ごとに大きく変わるため、決まった金額で言い表すのは難しいのが実情です。
そのうえで、収入の柱と、お金の使い道から見えることを整理します。
収入の柱は脚本と原作と著書
収入の柱は、ドラマや映画の脚本、原作、そして著書だったと考えられます。脚本の仕事は1959年のデビューから、2024年公開の映画海の沈黙まで60年以上続きました。
著書も、北の国からのシナリオ本やエッセイの富良野風話シリーズ、2022年と2023年に出た自伝など数多くあります。再放送や配信で作品が流れるたびに、脚本家にも使用料が支払われる仕組みがあります。
富良野塾は私財を投じて授業料が無料
富良野塾は、倉本さんが私財を投じて開いた授業料無料の塾です。1984年の開塾から、稼いだお金を後進を育てる場所に注いできました。
塾生は2年間共同生活を送り、夏は地元の農家で働いて生活費を稼ぎました。塾は2010年まで26年続き、2005年からは閉鎖されたゴルフ場を森に戻す富良野自然塾も始めています。
収入が大きかったと考えられる時期
収入がとくに大きかったのは、連続ドラマを次々に書いた1970年代から80年代だと考えられます。前略おふくろ様、北の国から、昨日悲別でと、ヒット作が続いた時期です。
晩年では、80代で書いたテレビ朝日の帯ドラマやすらぎの郷(2017年)と、続くやすらぎの刻〜道(2019〜2020年)が大きな仕事でした。どちらも平日の昼に毎日放送される長い作品です。
ただ、塾の運営に私財を回してきたことを考えると、収入の多さよりも使い道に倉本さんらしさが表れていると言えそうです。
倉本聰の現在は?2026年9月18日に91歳で亡くなった
倉本聰さんは2026年9月18日の夕方に亡くなりました。91歳でした。今も生きているのかと気にかけていた人も多いと思いますが、残念ながら訃報が届いています。
死因は多臓器不全で、富良野の自宅で息を引き取りました。発表は亡くなってから10日後の9月28日で、葬儀を終えてからの公表でした。
倉本財団が9月28日に発表
訃報は、倉本さんが理事長を務めた倉本財団が発表しました。2026年9月28日に確認した財団の公式サイト「倉本聰界隈」の倉本聰 逝去のお知らせに、死去の日と死因、葬儀、お別れの会のことが書かれています。
発表には、倉本は人と自然、家族、地域社会のあり方を見つめてきた、という言葉が添えられています。個別の問い合わせは控えてほしいとも書かれています。
病気と車いすで過ごした晩年
晩年の倉本さんは、車いすで人前に出ることが多くなっていました。2018年5月のギャラクシー賞の授賞式には車いすで登壇し、来週手術を受けると明かしています。
その後も90歳を目前にした2024年に、映画海の沈黙の原作と脚本を手がけました。亡くなった原因は多臓器不全と発表されていますが、それまでの病気の経過は明らかにされていません。
最後の大きな舞台は8月の朗読
亡くなる約1か月前の2026年8月9日、倉本さんは富良野演劇工場で朗読を披露しました。北の国からの放送45周年を記念したスペシャルコンサートにサプライズで登場しています。
車いすに座ったまま、2002遺言で五郎が純と蛍に遺した言葉を自ら読み上げました。会場は320席で、朗読のあとは拍手が鳴りやまなかったと伝えられています。
お別れの会は11月3日に富良野で
お別れの会は、11月3日に富良野演劇工場で開かれる予定です。故人の遺志によるもので、詳しいことは決まりしだい倉本聰界隈で知らされます。
富良野演劇工場は、倉本さんが長く関わってきた劇場です。最後に朗読を届けた場所で、今度はファンが倉本さんを見送ることになります。

最後の朗読と同じ劇場で、お別れの会が開かれるんですね。
富良野・ドラマ館に献花台が置かれた
お別れの会を待たずに花を手向けられる場所として、富良野・ドラマ館に献花台が置かれました。倉本財団が9月29日に、倉本聰界隈のお知らせで伝えています。
富良野・ドラマ館は、新富良野プリンスホテルの敷地の中にある「北の国から」などのドラマの資料館です。献花とメッセージは、館が開いている時間ならいつでも受け付けています。
| 項目 | 財団のお知らせに書かれていること |
|---|---|
| 場所 | 富良野・ドラマ館(新富良野プリンスホテル敷地内・富良野市中御料) |
| 時間 | 9時15分から18時45分(館の営業時間内) |
| できること | 献花と、館内のスペースへのメッセージの書き込み |
| お別れの会 | 11月3日(火)に富良野演劇工場で予定。時間や参加の方法は未発表 |
お別れの会の時間や、一般の人が参加できるかどうかはまだ出ていません。財団は詳しいことを倉本聰界隈で知らせるとしているので、富良野まで足を運ぶ予定の人は、そちらの更新を待つのが確実です。
11月には、倉本さんに関わる催しもほかに予定されています。富良野演劇工場では10月31日と11月1日に劇映画「海の沈黙」の上映会があり、東京では11月26日から28日に「北の国から」の音楽と映像のコンサートが開かれます。
倉本聰が富良野に移り住んだのは1977年
倉本聰さんが富良野に移り住んだのは1977年です。亡くなるまでのおよそ49年間、富良野を拠点に書き続けました。
東京を離れるきっかけは、1974年のNHK大河ドラマ勝海舟での行き違いでした。途中で降板した倉本さんはその日のうちに北海道へ飛び、札幌に住んだあと富良野へ移っています。
| 年 | 富良野での出来事 |
|---|---|
| 1977年 | 富良野市に移住 |
| 1981年 | 北の国からの放送が始まる |
| 1984年 | 富良野塾を開く |
| 2002年 | 北の国から 2002遺言でシリーズが完結 |
| 2005年 | 富良野自然塾を開く |
| 2010年 | 富良野塾を閉じる |
| 2017年 | 舞台走るを最後に演劇から引退 |
| 2026年8月9日 | 富良野演劇工場で朗読 |
| 2026年9月18日 | 富良野の自宅で死去 |
仕事より暮らしを選んだ移住
移住のとき倉本さんは、仕事はもうどうでもよくなっていたと振り返っています。脚本家仲間の向田邦子さんからは、東京を離れたら仕事は来ないと止められたそうです。
実際には富良野で北の国からが生まれ、代表作になりました。移住から4年後の1981年に放送が始まっています。
富良野塾と富良野自然塾
富良野では、富良野塾と富良野自然塾という2つの塾を開きました。富良野塾は俳優と脚本家を育てる場で、脚本家の吉田紀子さんや俳優の二階堂智さんらが巣立っています。
富良野自然塾は、閉鎖されたゴルフ場に木を植えて森に戻す活動です。森を使った環境教育のプログラムも続けてきました。2024年には三井住友フィナンシャルグループが活動への協賛を紹介し、倉本さんとの対談も公開しています。
倉本聰のドラマの代表作は北の国から
倉本聰さんのドラマの代表作は、1981年に始まった北の国からです。連続ドラマのあとも2002年の遺言までスペシャルドラマが続き、21年にわたるシリーズになりました。
ほかにも前略おふくろ様、昨日悲別で、優しい時間、風のガーデン、やすらぎの郷など、それぞれの年代に話題作があります。
| 放送年 | 作品 | 放送局 |
|---|---|---|
| 1975〜1976年 | 前略おふくろ様 | 日本テレビ系 |
| 1981〜2002年 | 北の国から | フジテレビ系 |
| 1984年 | 昨日、悲別で | 日本テレビ系 |
| 2005年 | 優しい時間 | フジテレビ系 |
| 2007年 | 拝啓、父上様 | フジテレビ系 |
| 2008年 | 風のガーデン | フジテレビ系 |
| 2017年 | やすらぎの郷 | テレビ朝日系 |
| 2019〜2020年 | やすらぎの刻〜道 | テレビ朝日系 |
子供がまだ食ってる途中でしょうがの誕生
北の国からでとくに知られるせりふが、子供がまだ食ってる途中でしょうがです。1984年のスペシャルドラマで、五郎がラーメン屋の店員に声を上げる場面でした。
倉本さんは2023年の産経新聞のインタビューで、最初の台本では五郎がただ謝るだけだったと明かしています。店員が家で子供の待つ母子家庭で早く帰りたかった、という背景を一晩考えて足したことで、場面が一気に広がったそうです。
二宮和也を2作続けて起用した
二宮和也さんは、優しい時間と拝啓、父上様の2作で倉本ドラマに出演しました。優しい時間は2005年、拝啓、父上様は2007年の作品で、拝啓、父上様では主役を務めています。
倉本さんはメディア文化評論家の碓井広義さんとの対話で、二宮さんの繊細さを評価していました。自分を聰ちゃんと呼ぶほど物怖じせず、生意気なのに失礼にならない、と話しています。
優しい時間の二宮さんは、母を事故で亡くした息子の役でした。父の働く姿を木の陰からそっと見る場面が、とくに印象に残ったそうです。
倉本聰の家族についてよくある質問
倉本聰さんの家族について、よく聞かれる質問をまとめました。答えは、本人の連載と財団の発表をもとにしています。
子供は何人いますか
子供は養女に迎えた娘さんが1人です。夫婦のあいだに実の子供はいません。
娘さんの名前や仕事は公表されていません。
妻は誰ですか
妻は舞台女優の平木久子さんです。演劇集団円に所属しています。
二人は劇団仲間で出会い、1961年に結婚したとされています。
兄弟は何人ですか
兄弟は倉本さんを含めて5人です。兄、姉、妹、弟がいて、倉本さんは真ん中でした。
兄と姉は父の最初の妻とのあいだの子供です。
今も生きていますか
今は亡くなっています。2026年9月18日に多臓器不全のため91歳で亡くなりました。
お別れの会は11月3日に富良野演劇工場で予定されています。
年収はいくらですか
年収の金額を本人が語ったことはありません。脚本や原作、著書が収入の柱だったと考えられます。
稼いだお金を私財として富良野塾の運営に注いでいました。
倉本聰の子供と家族のまとめ
倉本聰さんの子供と家族について紹介しました。
- 子供は養女に迎えた娘が1人
- 妻は舞台女優の平木久子
- 5人きょうだいの真ん中
- 年収は公表されていない
- 2026年9月18日に91歳で死去
娘さんのことは多く語られませんでしたが、家族や子ども時代の記憶は作品の中に生き続けています。お別れの会は11月3日に富良野演劇工場で予定されています。北の国からを、もう一度見返したくなりますね。

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